2026年1月5日

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60年に一度、火は形を変える  ―広告が動く、進化のリズム―

 

社会の変化は、いつも静かに始まります。
劇的な事件がきっかけになることもありますが、多くの場合は、生活の中にある小さな変化が少しずつ積み重なり、ある時期を境に「景色が変わった」と気づくものです。
広告も同じです。人の行動、技術の進歩、メディアの変化が折り重なり、気づいたときには広告の役割や存在感が変わっています。

今年、2026年は丙午(ひのえうま)で、火の象徴が重なる年といわれています。
火という象徴がもつ「灯る」「広がる」「形を変える」という性質は、時代の変化を読み解くうえでひとつのヒントになります。

広告の歴史を振り返ると、60年ごとに節目となる年があることに気づきます。
1846年、1906年、1966年。それぞれの丙午の年には、広告の形を変える出来事が起きていました。もちろん、丙午だから変わったと断定するつもりはありません。ただ、偶然にしては整いすぎているこの並びは、広告の変化を読み解くうえでひとつの指針になると感じます。

ここでは、火という象徴を手がかりにしながら、広告の形を変えてきた三つの節目の年をたどり、2026年という今年が、次の60年に向けてどのような始まりの年になるのかを考えていきます。過去の変化から学び、これからの広告戦略を考えるヒントを見つけていただければと思います。

 

1846年──広告の“灯り”がともった年

この年にアメリカで実用化された「輪転印刷機」は、その後の情報の届き方、そして広告の広がり方に静かに大きな変化をもたらしました。
開発者は、ニューヨークの技術者リチャード・マーチ・ホーです。

それまでの印刷は一枚ずつ刷る方式で、大量に印刷するには時間も費用もかかりました。
輪転印刷機は、活字を円筒形の版胴に固定し、その周囲に複数の圧胴を取り付けて紙を通しながら連続して高速印刷を行う仕組みです。版を元の位置に戻す必要がないため、従来の円圧印刷機に比べて大幅な時間短縮が可能になりました。この技術革新により、新聞や雑誌の発行部数は飛躍的に増加することになります。

この技術が登場した1840年代、アメリカではすでに広告を扱うビジネスの萌芽がありました。広告代理業が始まったのもこの時期で、新聞社と広告主の間に立ち、広告枠を販売する仕事が生まれていました。
とはいえ、その規模はまだ小さく、現代のようにマーケティングやメディアプランニングが体系化されている広告産業とはまったく違う段階にありました。広告代理店の役割は、新聞の広告スペースを仲介することが中心で、表現やメッセージの企画まで担うには至っていませんでした。

輪転印刷機の登場は、こうした初期の広告ビジネスに「量」というエンジンを与えました。
情報を速く、多くの人に届けられるようになったことで、新聞広告の価値は高まり、「多くの読者に向けて知らせる」という考え方が社会の中にゆっくりと浸透していきます。それまで限られた範囲でしか届かなかった商品の情報が、より広い地域の人々に同時に伝わるようになったのです。

新聞の発行部数が増えれば、それを読む人も増えます。読者が増えれば、広告を目にする機会も増えます。この単純な循環が、広告という存在に社会的な意味を与え始めました。
企業は新聞に広告を出すことで、これまでにない規模で顧客に届けることができるようになり、広告代理業もまた、その需要に応えて成長していきます。

これは、広告という存在に最初の「灯り」がともった瞬間だったとも言えます。
暗い場所にひとつの光が置かれると、周囲の輪郭が少しずつ見えるようになるように、情報の広がり方が変わることで、人々の行動や街の景色にも新しい輪郭が生まれ始めました。

輪転印刷機は、広告そのものを直接生み出した技術ではありません。しかし、広告が「社会に届くためのしくみ」を大きく変えた技術でした。
これ以降、情報の伝達速度と到達範囲は加速し、広告は「知らせる手段」として社会の中で少しずつ存在感を持つようになっていきます。

1846年は、その長い歴史の中で最初の火が静かに灯った年だったと言えるかもしれません。その灯りはまだ小さかったものの、やがて大きな流れにつながる兆しを含んでいました。

 

1906年──広告が“広がる”ための道が生まれた年

この年に公布された「鉄道国有法」は、日本の交通ネットワークの構造を大きく変えるきっかけになりました。翌年には帝国鉄道庁が発足し、それまで地域ごとに整備されていた鉄道が一つの仕組みとしてまとめられ、全国的な広がりを持ちはじめます。

明治時代の日本では、鉄道は民間企業によって建設され、各地域で独自の路線網が形成されていました。
しかし、経営の不安定さや軍事輸送の必要性から、政府は主要な私鉄を買収し、統一的な運営を行う方向へ舵を切りました。鉄道国有法の公布により、全国の鉄道網が一本の線としてつながり、人の移動が安定し、都市と地方の間に同じリズムで行き来する流れが生まれます。

この頃の日本では、すでに新聞という情報媒体は存在し、都市部を中心に読まれる文化が根づきつつありました。ただ、いま私たちがイメージするような「全国的な同時共有」とは異なり、情報がどの地域まで、どの速度で届くのかにはまだばらつきがありました。
東京で発行された新聞が地方に届くには時間がかかり、地域によって情報の鮮度に差がある時代でした。

鉄道の国有化は、この「情報の届き方」に新しい方向性をもたらした出来事でした。
鉄道網が整備されることで、新聞や雑誌の配送網も安定し、情報が全国に届く速度が上がります。移動が増える場所には、必ず情報の接点が生まれます。
駅には人が集まり、車内には一定の時間を過ごす乗客がいて、乗り換えや待ち時間という「自然な余白」が存在します。こうした場所が全国的に整い始めたことで、広告が触れられる場も広がりを持つようになりました。

日本における広告代理業も、この時期にはすでに動き始めていました。
1888年には日本の広告代理店の創始というべき「廣告社」が開業し、1901年には「日本広告株式会社」が創立されています。これは電通の前身となる会社です。1906年の鉄道国有化の頃には、広告を専門に扱う事業者が存在し、新聞広告を中心に市場が形成されつつありました。

鉄道が広告のためにつくられたわけではありません。しかし、人がどこへ移動し、どこで立ち止まり、どこで視線を向けるのかという「行動の流れ」が全国レベルで整っていったことは、広告にとって大きな意味を持っていました。
情報は紙面だけでなく、人の移動とともに運ばれていく。駅という場所は、多くの人が集まり、時間を過ごし、目的地へ向かう前に何かを目にする接点になります。その変化が可能になったのがこの時期で、広告は「読むもの」から「出会うもの」へと少しずつ位置づけを変えていきます。

1846年に灯った情報の明かりは、この1906年に入り、人の移動という「線」と結びつきながら広がり始めました。火が静かに走り出すように、情報もまた、新たな場所へと流れ始めたのです。

 

1966年──広告の“景色”が変わった年

日本では、この年を境に映像の扱われ方が大きく変わっていきます。
1966年3月、電電公社(現在のNTT)が全国のテレビ中継回線をカラー放送に対応させ、全国規模でカラー放送のネットワークが整いました。これにより、離島を除く多くの地域で、カラー番組を安定して受信できる環境が整備されます。これが、いわゆる「色のあるテレビ」が全国へ広がるための前提条件になりました。

この年の3月6日、日本テレビで世界初のカラースポットCMが放映され、5月からは『笑点』のカラー放送が開始されました。
それまで白黒の映像として届いていた広告が、色と音を持った新しい表現として家庭に入り込み始めた瞬間です。企業は商品の色やパッケージをそのまま見せることができるようになり、広告表現の可能性は大きく広がりました。

ただ、この時点でカラーテレビが一気に家庭へ普及したわけではありません。1964年にはカラーテレビの販売台数は年間5万7000台ほどでしたが、1966年には52万台、1967年には128万台と倍増していきます。
普及率はまだ低かったものの、「白黒からカラーへ」という転換はここから数年かけて進んでいきます。1966年は、その「入口」となる節目の年でした。

テレビが本格的に生活の中心に置かれ、家庭で映像が流れる時間が増え、「映像を見る」という行為が定着し始めたのもこの時期です。同時に、広告はこれまでの「紙」や「移動」の文脈から、「色と音の物語として伝える」方向へ大きく舵を切ることになります。

番組の中では、『笑点』の放送開始、ビートルズ来日を中継する番組など、映像を通じて文化が共有される瞬間が増えました。
生活の中心にテレビが置かれるようになるにつれ、家庭の中にある「毎日の風景」が変わっていきます。夕食の時間にテレビをつけ、家族で同じ番組を見る。そんな習慣が全国に広がり、その時間に流れるCMもまた、多くの人々の記憶に残るようになりました。

広告もまた、その変化と呼応するように、色や音を使った新しい表現が増えていきました。
商品そのものを見せるだけでなく、生活の明るさや空気感、文化の雰囲気までも映像として伝えることができるようになったのです。冷蔵庫の白、洗濯機の青、食品のみずみずしさ。それまで言葉や絵で想像するしかなかった色が、そのまま届くようになりました。

企業にとって、テレビCMは新しい投資先になりました。
制作費はかかりますが、一度に多くの家庭に届けられる効率の良さは、新聞や雑誌にはない魅力でした。
広告代理店もまた、映像制作や放送枠の確保といった新しい業務に対応していきます。広告ビジネスの構造そのものが、この時期に大きく変わり始めました。

これまでの広告が「灯り」や「広がり」だったとすれば、1966年の変化は「景色そのものが色づく瞬間」でした。人々の日常がテレビを通して共有され、企業のメッセージが映像として記憶に残る。広告が「体験」として受け取られる時代が始まったと言えます。

 

2026年──火が呼吸をはじめる年

1846年に情報の灯りがともり、1906年に人の移動とともに広がりが生まれ、1966年には色と映像が広告の景色を変えていきました。その流れを受けるいまの広告は、大きな革命が起きるわけではありませんが、生活の中に静かに入り込みながら、少しずつ「呼吸をはじめる段階」に入っています。

火が呼吸をする。
それは、固定されたメッセージを一方的に届けるのではなく、環境や状況に応じて強弱を変え、そのときどきに合った姿で現れることを意味します。朝と夜、晴れの日と雨の日、駅前とオフィス街。広告が置かれる文脈によって、伝え方も見せ方も変わっていく。そんな柔軟さが、2026年の広告には求められています。

そのひとつが、AIの浸透です。
AIは「新しい技術」という段階を越え、広告制作に自然に組み込まれる存在になりました。文章やビジュアルの案出し、動画の素材づくり、複数案の比較検証など、表現を試すプロセスが大幅に広がり、広告の生まれ方に新しい柔軟性が生まれています。
以前であれば、3つの案を作るには3倍の時間と予算が必要でした。いまは、AIを使うことで10案、20案を短時間で生成し、その中から最適なものを選ぶことができます。A/Bテストの精度も上がり、どの表現が効果的かを実際のデータで判断できるようになりました。
制作の手順が変わることで、企画そのものの発想も少しずつ変わり始めています。「この表現しかない」ではなく、「この中からどれが最も届くか」という思考へのシフトです。

広告が見られる場面でも、変化は進んでいます。
駅サイネージや大型ビジョンは、すでに街の景色として定着し、いまは媒体そのものの新しさよりも、時間帯やエリア、人の流れに合わせて表示内容を切り替えることが重視されるようになりました。朝の通勤時間帯と昼休み、夕方の帰宅時間では、見ている人の属性も心理状態も違います。同じ場所でも、時間によって異なるメッセージを出し分けることで、広告の届き方が変わります。
広告は街の動きと連動し、その瞬間の環境に合わせて姿を変える「動的なメディア」として扱われつつあります。天気や気温、周辺のイベント情報と連動して表示内容が変わる広告も増えてきました。雨の日には傘の広告、暑い日には冷たい飲み物の広告。こうした柔軟な運用が、技術の進歩とともに当たり前になりつつあります。

スマートフォンで動画を見ることも、いまではすっかり当たり前の行動になりました。
その結果、テレビCM、Web動画、SNS動画の役割ははっきりと分かれ、縦型の短い動画や無音視聴への適応など、生活者の文脈に沿った表現が中心になっています。
数年前まで15秒が標準だったWeb動画広告は、いまやYouTubeでは5秒でスキップされることを前提とした設計が必要になり、SNSではさらに短い3秒以内で興味を引く工夫が求められています。無音で見られることを前提にした字幕の活用、縦型画面に最適化されたデザイン、最初の1秒で引きつけるフックの設計。こうした細かな最適化の積み重ねが、広告の届き方を左右する時代になりました。

同時に、広告が出稿される場所も多様化しています。従来の新聞、雑誌、テレビ、Webに加えて、小売店内のデジタルサイネージや、ECサイト内の広告枠といった「リテールメディア」が注目を集めています。購買の直前に接触できる広告枠として、効果測定がしやすく、投資対効果を重視する企業にとって魅力的な選択肢になっています。

こうした変化の背景には、プライバシーへの配慮という大きなテーマもあります。
Cookie規制が進み、従来のような行動追跡型の広告配信は難しくなりつつあります。個人情報保護法の改正により、企業はより慎重なデータの扱いを求められており、制約が増える一方で、ファーストパーティデータの価値が高まり、顧客との直接的な関係づくりが重視されるようになりました。

さらに、移動の領域でも変化が見られます。
交通手段をまとめて検索・予約し、最適な移動ルートを提案するMaaS(モビリティ・アズ・ア・サービス)が進み、「移動そのものが設計される」時代に近づきつつあります。人がどこへ行き、どの経路を通り、どこで時間を過ごすのかが可視化されれば、広告が触れられる場所やタイミングも、これまで以上に精度高く設計できるようになります。 1906年の鉄道国有化が「人の流れ」を整えたように、MaaSは「人の流れのデータ化」を進めています。街の動きと個人の動きが重なることで、広告が介入できる「すき間」もまた増えていくはずです。ただし、この変化にはプライバシーへの配慮も欠かせません。便利さと信頼のバランスをどう取るかが、これからの広告運用の重要なテーマになります。

 

次の60年へ──変わるものと、変わらないものと

広告の歴史を振り返ると、大きな変化はいつも静かに始まっていました。
輪転印刷機が灯りをともしたときも、鉄道が人の流れをつないだときも、テレビが色を持ち、生活の景色を変えたときも、その瞬間だけを見れば、そこに大きな革新が生まれているようには見えなかったはずです。けれど、気づけば社会の風景が変わり、人の行動が変わり、広告の存在の仕方さえ変わっていきました。

2026年も、きっと同じです。
動画の秒数、データの扱い方、広告を出す場所。どれも地味な変化に見えますが、こうした細部の最適化が積み重なることで、広告の届き方は大きく変わっていきます。日々の暮らしの中にある小さな変化が、時間をかけながら広告の姿をゆっくりと形づくっています。 その変化がどこへ向かうのか、いまを生きる私たちにはまだ見えていません。ただ、60年後に振り返ったとき、この年を「火が呼吸をはじめた年」として記憶する瞬間が訪れるのかもしれません。それは、静かに燃えていた火が、環境に応じて息を吸い、吐き、生き物のように動き始めた証のようなものです。

では、この変化の中で、広告やマーケティングに携わる私たちは何を考えるべきでしょうか。
ひとつは、変化を恐れず、新しい手法や技術を試していく姿勢です。
AIを使った制作、デジタルサイネージの動的な運用、データに基づく最適化。これらはすでに現実のものになっています。けれど、導入するかどうかを迷っている企業も少なくありません。完璧な答えが見つかるまで待つのではなく、小さく試しながら学んでいくことが、次の時代への準備になります。
火が呼吸をするように、広告もまた状況に応じて姿を変える時代になりました。朝の通勤時間と昼休み、雨の日と晴れの日で、同じ場所でも異なるメッセージを届ける。そんな柔軟な運用が求められています。技術がそれを可能にしたいま、その可能性をどう活かすかは、私たち次第です。

もうひとつは、変わらない軸を見失わないことです。
技術が変わり、媒体が変わり、表現の方法が変わっても、広告の本質は「誰かに何かを伝える」ことです。伝えたい相手は誰で、その人はどんな状況で、どんな気持ちで広告に触れるのか。その視点を持ち続けることが、どんな時代でも変わらず大切です。

1846年の輪転印刷機は、情報を届ける量を増やしました。1906年の鉄道国有化は、情報が届く場所を広げました。1966年のカラーテレビは、情報の伝わり方を豊かにしました。そして2026年は、情報が届くタイミングと文脈を最適化し、火が呼吸をはじめる時代になりつつあります。 それぞれの時代に、技術は新しい可能性を与えてくれました。けれど、その技術をどう使うかを決めるのは、いつも人です。
データが示す最適解だけに頼るのではなく、届けたい相手の顔を思い浮かべ、その人にとって本当に意味のあるメッセージを考える。その姿勢は、時代が変わっても色あせることはありません。

広告は時代とともに姿を変えますが、人の心に届くために必要な工夫や、丁寧に「伝える」ための姿勢は変わりません。変わっていくものと、変わらずに大切にしたいもの。その両方を見きわめながら、広告はこれからも生活の中で役割を果たしていくはずです。
いまは大きな転換点にいるようにも見えますが、未来を決めるのは、特別な出来事よりも、毎日の小さな選択や積み重ねです。どの媒体を選ぶか、どんなメッセージを届けるか、どのタイミングで声をかけるか。火が呼吸をするように、状況に応じて柔軟に変化させていく。その積み重ねが、次の60年をつくる灯りになります。

もし、今年の広告展開や媒体の選び方、AIやデジタル技術の活用方法、あるいは変わらない軸と変わっていく手法のバランスなどで考えることがありましたら、どうぞお気軽にご相談ください。 新しい流れに向き合いながら、これまで大切にしてきた基本も踏まえて、貴社にとって最適な広告の形をいっしょに考えさせていただければと思います。

 

運営者情報

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株式会社キョウエイアドインターナショナル
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