海辺の街の穏やかな風が流れる日常
仕事をもち、社会で活躍する女性にとってライフステージの変化は、結婚よりもむしろ出産や育児で大きな局面を迎える。とくに仕事を続けていこうとする場合、これまでとはちがった生活のサイクルを確立する必要がある。
東京湾の海辺に近い、生まれ育った街で現在も暮らす大沼は、1歳9ケ月(取材時)の男の子を育て、家庭と仕事の両立に自分なりの答えをみつけて、忙しい日々を送っている。
待合わせ場所の、私鉄駅に隣接するスーパーへと続くアプローチの入り口に、大沼は普段長男の送り迎えに利用している電動自転車で現れた。
「いつもここで買い物しています。土日にまとめ買いして、週の半ばに足りないものを買い足します。自転車置き場からも近いので、便利なんですよ」という言葉の通り、慣れた様子で自転車を道の端に寄せてスタンドをおろす。
通勤ラッシュの時間を過ぎた駅前の小さな商店街は静かで落ち着いているが、夜は雑駁な活気が魅力の街だ。
駅前で数カット撮影し、次に海辺の公園に向かう。
「この辺りは海苔を扱うお店や会社が多くて、みんな小さい頃からおやつ代わりに海苔を食べるんです。だから海苔の味にはうるさい人が多いですよ」
10分ほどの道すがら、大沼は自分の自転車を押しながら、穏やかな口調でこのあたりの土地柄について話してくれる。
公園に着いた。海沿いの広大な敷地がつかわれ、小高い丘には大きな滑り台がある。入江のようになった砂浜まで整備されている。東京湾内に位置しているので、打ち寄せる波の表情はおだやかだ。対岸には工場群が臨まれ、このあたりが京浜工業地帯に接していることがわかる。時おり羽田から旅客機が急角度で飛び立つが、少し距離があるのでエンジンの音は聞こえない。静謐な時間がゆっくりと流れている。
小さな浜を見下ろすベンチに腰掛けて風景を眺めている大沼に、日常についてたずねてみる。
「6時30分に起床して7時には長男にごはんを食べさせ、8時30分に保育園に預けます。仕事を済ませてお迎えに行けるのは18時ころです。それから買い物を済ませて夕食の準備。19時には食事を済ませて入浴させ、21時に寝かしつけます。長男はお風呂が大好きで、入浴中のおしゃべりは大切なコミュニケーションの時間ですね。就寝時にも添い寝してたくさんおしゃべりをするのですが、疲れで自分の方が先にうとうとしてしまうこともあります」
家事や育児の分担は夫と話し合って、状況に応じて協力し合っている。
ちかごろ長男に自我が芽生え始めた。イライラが募ると物を投げたり本の上に乗っかったりして自己主張を示すようになった。成長の過程でのあたりまえの現象ではある。「そんな時は頭ごなしに叱りつけるのではなく、本がかわいそうだよ〜!というように、物を命あるものに例えて諭すように話しかけています。また、あえて悲しんでいるように振る舞うことも。私のそうした表情に、とても困惑した顔をする時もありますね」
「他者への思いやりの心を育んでほしい」大沼は長男に対して、そう願っている。
慌ただしい日常であっても、なるべくコミュニケーションをとりたいと考えている。長男が起きている間は夫との会話も、子供でも理解できる内容を心がけている。「家族」というものに対する大沼の考えの一端が伺える。
出産、そして時短勤務制度を利用して復職
「結婚後も仕事を続けていたのですが、出産を控えたことを機会に休職しました。休職を決めた時点で、時期ははっきりとは決めていませんでしたが、育児が落ち着いたら復職しようと決めていました」復職を決めていたいちばんの理由は「仕事が好きで、楽しかった」からだ。
以前先輩の女性社員も利用していたので、平日9時から16時30分までをワーキングタイムとする時短勤務制度の存在は知っていた。それも復職への気持ちを後押しした。そして、一年と三か月の休職ののち復職した。
「長男が生まれてすぐの期間は自分の手元で育てたいという気持があり、保育園には生後半年してから入園を申請しました。最初の申請では入園決定にいたらず、二度目の申請でようやく認められました」
保育園の不足による多数の待機児童の存在が問題となっている東京都ではめずらしいことではない。比較的、競争率が低い地域に在住していたことが早期の入園に幸いした。
復職するまでのあいだ、夫は職場に出かけ、家には幼い長男と二人きり。
「生後しばらくは他の人の手を借りることなく、自分で育てたい」と自ら決めたこととはいえ、言いようのない閉塞感を覚えることもあったという。そんな時はよく自宅近くの公園や児童館に足を向けた。外の風と触れることで、張り詰めた気持ちが軽くなり、少しほっとした。今回撮影に訪れた公園も、そうした時間を過ごした場所のひとつだ。
三週間ほどの保育園のならし保育を済ませて復職したのは、2017年4月の半ばを過ぎだ頃だった。
復職前は高い心理的なハードルの存在を感じていた。復職初日、おそるおそる職場に足を踏み入れた。少し休んでいる間に仕事のシステムが変わっている。新しく加わったメンバーもたくさんいた。
新入社員として出勤した初日のようなとまどいを感じた。幸い、もともと所属していた部署に戻ることができて、部署のみんなも歓迎してくれた。駅看板などの特徴をまとめた資料を作成して、営業をサポートする現在の業務の内容は復職前と同様で、気心の知れた仲間との慣れ親しんだ業務に戻れたことを素直によろこんだ。
子育てに専念していた時には難しかった、自分の時間をもつこともできるようになった。昼食時には気に入ったカフェに一人で入り、ランチを取りながらプライベートなメールに返信したり、以前から気になっていたことを調べたりする。そして週に一度は、職場のある新宿界隈のラーメン店を同僚と巡り、会話を楽しむ。
休職前と同じような日々が再び始まった。しかし、以前と同じような働き方をするには、難しい部分もあると感じている。
直接的なコミュニケーションで周囲と協調
「以前は職場の飲み会などでコミュニケーションを図ることができましたが、復職後は時間的な制約でそれも難しくなったので、とても残念に感じています。その分、同僚との連絡はメールで済ますのではなく、相手のデスクまで出向いたり、内線電話を用いるなどして、なるべく直接的なコミュニケーションを心がけています」
大沼の仕事は、営業担当者が訪問先から帰社する時間帯に物事が動くことも多い。その頃は帰宅しているのだが、進捗の情報はメールでつねに確認できる。
家事が一段落したころにメールを確認、緊急の事案にはすぐに返信をする。そして翌日の段取りを考え、なるべく直行のスケジュールを組む。直接出先に向かうことで、すこしでも移動に必要な時間を減らし、効率的に業務をこなしたいという気持ちからだ。
「時短勤務になってから、ONとOFFのメリハリや時間の管理を意識するようになり、時計に目をやることが多くなりました」
同僚は連絡がつきにくい時間があることに苦言を呈することはなく、むしろフォローしてくれる。それでもやはり気になることはある。
「確実に仕事を進行させられるよう心がけているつもりですが、私が時短勤務であることで同僚の業務を滞らせていないかが常に気になります。また、そうしたことを勝手にプレッシャーと捉えている自分を感じたこともありました」
ベンチに座ったまま、波打ちぎわで遊びに興じる親子の様子をみやる大沼の語り口はおだやかだ。しかし周囲とは異なる勤務シフトで働くことへの葛藤がそこにあった。
「仕事をすることが好きだから復職しました。だから時短勤務であっても、やるべきことを、きちんとこなしていきたいとおもっています」
時短とはいえ平日は全日勤務しているので、大半の時間を仕事に費やしている。
「家庭で過ごせる時間は限られています。だからこそ、気持ちを最大限注いで、密度濃く過ごしたいです」撮影を終えて、もと来た道を戻りながら、きっぱりと言った。子供が大きくなったらフルタイム勤務に戻りたいと、大沼は考えている。
緑に覆われた公園のなだらかな斜面をゆっくりと登る。さっきまで頭上を覆っていた薄雲は去り、視界の先には鮮やかな青空が広がっていた。
(了)